Masuk第5話 君は金を受け取って消えた
怜司が最初に取り戻した感覚は、痛みだった。
頭の奥で鈍いものが脈打ち、胸のあたりには重たい石でも乗せられているような圧迫感があった。息を吸うたびに体のどこかが軋み、自分の体なのに、まるで借り物のように思うように動かない。
目を開けるまでにも時間がかかった。
白い天井。
ぼやけた照明。
耳元で規則正しく鳴る機械音。
何が起きたのか理解できないまま、怜司は何度か瞬きをした。
「怜司?」
聞き慣れた女性の声がした。
ゆっくり顔を動かすと、母の沙耶がベッド脇に立っていた。
いつも隙のない人なのに、その日は髪が少し乱れ、目の下に薄い影があった。
「……母さん」
声を出した瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づく。
「無理に話さなくていいの。先生を呼ぶから」
沙耶がナースコールへ手を伸ばした。
怜司はその手首をつかもうとしたが、腕はほとんど持ち上がらなかった。
「待って」
「何?」
「……美月は?」
自分でも驚くほど、最初に出てきたのはその名前だった。
事故のことも、仕事のことも、会社のことも聞かなかった。
美月。
最後に覚えているのは、移動中の車内でスマートフォンを見ていたことだ。
『帰りにプリン買う』
そう送った。
相手から、
『話聞いてる?』
と返ってきて、それを見て笑ったところまでは覚えている。
そのあと。
大きな音。
体が強く引かれた感覚。
ガラスの割れる音。
それから記憶がない。
「美月に……連絡した?」
沙耶の表情が、ほんのわずかに変わったように見えた。
けれど意識がまだはっきりしていなかった怜司は、それを深く考えなかった。
「今はあなたの体のことだけ考えなさい。かなり大きな事故だったのよ」
「美月は無事なんだな?」
「彼女は事故に関係していません」
「なら、呼んで」
「怜司」
「会いたい」
自分でも子供じみた言い方だと思った。
それでも、目を覚ましたら最初に会いたかった。
事故に遭う前の自分にとって、それは当たり前のことだった。
沙耶はすぐには答えなかった。
ちょうどそのとき、医師と看護師が病室へ入ってきた。
「神代さん、分かりますか? ここがどこか認識できますか?」
診察が始まり、美月の話はそこで途切れた。
◇
事故から目を覚ました直後の数日間、怜司の生活は医師の指示だけで進んでいった。
検査。
睡眠。
点滴。
リハビリ。
痛み止め。
目が覚めている時間そのものが短く、何か考え始めても途中で眠ってしまう。
けれど、美月のことだけは忘れなかった。
意識が安定してきた二日目の午後、怜司はベッド脇に置かれた自分のスマートフォンを見つけた。
「それ、まだ長く見ないほうがいいわよ」
沙耶が言った。
「連絡だけする」
「仕事なら、今は周りに任せているから」
「仕事じゃない」
ロックを解除する。
画面には大量の着信とメッセージが溜まっていた。
取締役。
友人。
取引先。
親族。
事故のニュースを知った人間からの連絡が何十件も並んでいる。
怜司はその中から一つの名前だけを探した。
相沢美月。
あった。
何通も。
『今病院にいるよ』
『会えなくても待ってるから』
『起きたら連絡して』
最後に届いていたのは、事故の翌日だった。
怜司の胸が少しだけ軽くなった。
来てくれていた。
当たり前だと思っていたのに、その事実を見ただけで安心した。
すぐに電話をかける。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「寝てるのか」
時間を見ると午後だった。
仕事中なのかもしれない。
そう考え、メッセージを送った。
『起きた。心配かけた。会いたい』
短かった。
長い文章を打つには、まだ頭が重かった。
それでも十分だと思った。
美月なら、これを見たら怒るだろう。
『それだけ?』
そう返してくるかもしれない。
あるいは泣きながら、
『馬鹿』
と電話してくるかもしれない。
怜司はそんなことを想像した。
だが、その日のうちに返事は来なかった。
◇
翌日になっても、既読はつかなかった。
「母さん、美月は病院に来てないのか?」
怜司は朝一番に尋ねた。
沙耶は持っていた書類から顔を上げた。
「来ているわ」
「なら、何で会えない」
「今は面会を制限しているからよ」
「俺は会いたい」
「医師からも安静にするよう言われているでしょう」
「一時間話したいって言ってない。五分でいい」
「怜司」
「会わせてくれ」
事故前なら、沙耶とここまで正面から言い争うことは少なかった。
母親と息子である以前に、神代家では互いに「言っても無駄なこと」を分かっていた。
それでもこのときの怜司には引く理由がなかった。
「本人が来てるなら、会うくらい問題ないだろ」
沙耶はしばらく黙っていた。
そのあと、少し困ったように言った。
「彼女も、今は会うつもりがないそうよ」
怜司は聞き間違いかと思った。
「……何?」
「相沢さん自身も、少し落ち着いてからにしたいと言っているの」
「本人がそう言ったのか?」
「ええ」
「おかしいだろ」
「何がおかしいの?」
「事故の翌日まで、会いたいってメッセージを送ってきてる」
「人の気持ちは変わるものよ」
「一日で?」
「大きな事故が起きたあとなら、なおさらでしょう」
怜司は納得できなかった。
事故に遭ったのは自分だ。
怖い思いをさせたのは分かる。
でも、それで会いたくなくなる理由がない。
「スマホ貸して。もう一回連絡する」
「体に障るわ」
「それくらいで悪化するなら、最初から渡すなよ」
苛立ちを隠さず言い、怜司は再び美月へ電話をかけた。
繋がらない。
メッセージも未読のままだ。
嫌な感じがした。
◇
体が動くようになるにつれて、怜司は病室の外へ出たがるようになった。
医師から許可された範囲で廊下を歩く。
リハビリのついでではなく、美月がどこかにいるのではないかと思ったからだ。
受付まで行こうとして、看護師に止められたこともある。
「神代さん、まだ病棟から離れる許可は出てませんよ」
「下に知り合いが来てるかもしれない」
「ご家族の方に確認してもらいましょう」
「家族じゃなくて、俺が確認したいんです」
看護師を困らせていることは分かっていた。
それでも、自分だけが閉じ込められているような感覚に耐えられなかった。
美月は来ている。
そう聞いている。
なのに会えない。
連絡もつかない。
どこかがおかしい。
だが、事故直後の怜司には、その違和感を突き詰めるだけの体力も自由もなかった。
◇
「相沢さんは、もう来ないそうよ」
沙耶がそう告げたのは、意識が戻ってから一週間ほど経った頃だった。
怜司はベッドの上でリハビリ用の資料を読んでいた。
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「何で」
「本人がそう決めたから」
「俺は一度も会ってない」
「会う必要がないと思ったのでしょう」
「それ、本人が言ったのか」
「何度同じことを聞くの?」
沙耶はわずかに疲れた顔をした。
「怜司、あなたも現実を見なさい。相沢さんは、今回の事故をきっかけにあなたとの関係を終わらせたいと言っている」
「何で俺本人に言わない」
「会えば言えなくなると思ったんじゃない?」
「そんな女じゃない」
「あなたがそう信じたいだけかもしれないでしょう」
怜司は資料を閉じた。
「母さん、美月が何て言ったのか、そのまま教えてくれ」
沙耶は少し迷ったあと、口を開いた。
「あなたの家と関わることに疲れた。もう普通の生活へ戻りたい。あなたとはこれ以上続けられない、と」
「……それだけ?」
「それだけではありません」
沙耶の声音が少し変わった。
「こちらから今後の生活について話をしたところ、相沢さんは条件を受け入れました」
「条件?」
「金銭的な補償よ」
怜司は理解できなかった。
「何の補償だ」
「交際を終えるにあたって、です」
怜司はしばらく母親を見た。
冗談を言っているようには見えなかった。
「美月が金を受け取った?」
「そうです」
「いくら」
「額を聞いてどうするの?」
「いいから答えろ」
「怜司」
「答えてくれ」
沙耶は小さく息を吐いた。
「まとまった金額です。あなたの名前を出す必要はないでしょう。彼女自身も、それで納得しました」
「嘘だ」
即座に出た言葉だった。
「美月はそんなことしない」
「あなたは、彼女のすべてを知っているつもりなの?」
「少なくとも、金で俺と別れる女じゃない」
「恋愛中の人間が相手を美化するのは珍しいことではありません」
「そういう話じゃない」
声が大きくなり、傷んだ胸に響いた。
痛みで顔を歪めると、沙耶がすぐ立ち上がった。
「無理をしないで。今あなたが感情的になっても——」
「感情的にもなるだろ」
怜司は母を睨んだ。
「事故に遭って、目が覚めたら恋人が消えてて、その理由が金をもらったからだって言われて、冷静でいろってほうがおかしい」
「だからこそ、今は体を治しなさいと言っているの」
「証拠は?」
「何?」
「美月が金を受け取った証拠」
沙耶は眉を寄せた。
「今ここでそんなものを見せる必要があるの?」
「ある」
「彼女が自分から関係を終わらせた、それで十分でしょう」
「十分じゃない」
怜司はそこで初めて、はっきりと母親を疑った。
けれど、その疑いはまだ小さかった。
沙耶が美月を快く思っていないことは知っている。
それでも、息子が事故に遭った状況で、こんな大きな嘘をつくとは考えたくなかった。
「美月と直接話す」
「だから、本人が望んでいないのよ」
「番号は変わってない。連絡する」
「何度連絡しても返事がないのでしょう?」
怜司は言葉に詰まった。
それが一番つらかった。
沙耶の話を疑う材料はいくつもある。
けれど、美月本人から何も返ってこない。
それがすべての疑いを鈍らせた。
◇
退院へ向けたリハビリが始まってからも、怜司は美月へ連絡し続けた。
一日に何十件も送るようなことはしなかった。
それは美月が嫌がると分かっていた。
『話がしたい』
『金を受け取ったって本当か』
『一度だけでいいから返事をくれ』
送った。
待った。
返事は来ない。
やがて、美月の番号は繋がらなくなった。
「番号を変えたのか」
怜司は友人に連絡した。
大学時代に美月と付き合いのあった人間へ片っ端から聞いた。
『最近、美月と連絡取ってる?』
返ってきたのは、どれも曖昧な返事だった。
『しばらく会ってない』
『仕事辞めたって聞いたような』
『引っ越したらしいよ』
誰も住所を知らない。
少なくとも、怜司に教えられる人間はいなかった。
それが偶然だったのか、それとも誰かが先回りしていたのか。
今の怜司なら疑ったかもしれない。
けれど二十四歳の怜司には、自分が最も恐れている答えへ少しずつ追い込まれていくようにしか思えなかった。
美月は本当に、自分から消えたのではないか。
◇
「これを見れば、もう納得するでしょう」
ある午後、沙耶が一枚の書類を持って病室へ来た。
怜司は無言で受け取った。
銀行の振込記録の写しだった。
神代家が管理する口座から、まとまった金額が出ている。
受取人欄には、相沢美月の名前。
怜司は何度も見た。
「本人の口座?」
「そう聞いています」
「聞いてる?」
「実務は担当者に任せていますから、私が直接処理したわけではありません」
振込先の詳細までは載っていない。
名義だけ。
それでも当時の怜司にとっては、十分すぎる証拠に見えた。
「……いくらだ」
沙耶が答えた金額は、二十二歳の美月が簡単に無視できるような額ではなかった。
怜司は紙を握った。
頭では、まだ信じるなと言っていた。
銀行記録だって確認すればいい。
本人に聞けばいい。
けれど、その本人がいない。
電話は繋がらない。
手紙も来ない。
友人も居場所を知らない。
そして、金だけが動いている。
「いつ受け取った」
「あなたが意識を取り戻した頃よ」
怜司は目を閉じた。
タイミングまで最悪だった。
自分が目を覚ました頃、美月は金を受け取って消えた。
そう考えれば、話はつながってしまう。
つながってしまうからこそ、苦しかった。
「……何で」
呟きが漏れた。
「何で、俺に一言もないんだよ」
沙耶は答えなかった。
◇
退院したあと、怜司は一度だけ、美月が暮らしていた部屋へ行った。
事故前には何度も通った場所だった。
狭い玄関。
二人で選んだカーテン。
壊れかけの炊飯器。
夏になるとやたら暑くなるキッチン。
全部覚えていた。
だが、そこにはもう別の名字が表札に出ていた。
管理会社へ聞いても、個人情報を理由に転居先は教えてもらえない。
当然だった。
建物の前で立ち尽くしていると、以前何度か顔を合わせた近所の女性が怜司に気づいた。
「あら、美月ちゃんのお知り合い?」
「はい。引っ越したって聞いて」
「そうなのよ。急だったからびっくりしたわ。若いのに大変そうだったけどねえ」
「大変そう?」
「ええ、まあ……」
女性は何か言いかけ、他人の事情へ踏み込みすぎたと思ったのか口を閉じた。
「転居先、知りませんか」
「ごめんなさい、そこまでは。荷物もそんなに多くなかったし、身軽に出たみたいよ」
身軽に。
その言葉が妙に残った。
怜司は礼を言い、建物を離れた。
事故前、自分は美月と将来の話までしていた。
結婚という言葉を具体的に出したことはまだ少なかったが、どこに住みたいか、仕事をどうしたいか、くだらない話の延長で何度も未来を共有した。
それが、自分が眠っている数日のあいだに消えた。
◇
その夜、怜司は実家の自室で一人、美月とのメッセージ履歴を見返した。
事故当日のやり取り。
『今日遅くなる。飯食ってていい』
『言われなくても食べます。自分がいないと私が夕飯も食べない女みたいに言わないで』
『帰りにプリン買う』
『話聞いてる?』
そこまで。
何度見ても、別れの予兆など見つからない。
怒っている様子もない。
距離を置きたい人間の言葉にも見えない。
「……何なんだよ」
スマートフォンをベッドへ投げた。
信じたくなかった。
美月が金を選んだことも。
何も言わず自分を捨てたことも。
全部、何かの間違いだと思いたかった。
だが、美月本人が何も言ってくれない。
人は沈黙に、自分が最も恐れている意味を勝手につける。
当時の怜司は、それを知らなかった。
返事がない。
だから美月は自分を捨てた。
姿を消した。
だから会いたくないのだ。
金が動いた。
だから本当に金を受け取った。
一つひとつは証明にならないはずなのに、積み重なるほど怜司には真実のように見えた。
◇
数週間後、沙耶は息子が復職へ向けて動き始めたのを見て、ようやく安堵したようだった。
「仕事は焦らなくてもいいのよ」
「家で寝てるほうが頭がおかしくなる」
「まだ体は完全ではないでしょう」
「医師の許可は取ってる」
怜司はネクタイを締めた。
鏡の中の自分は、事故前より少し痩せている。
顔色もいいとは言えない。
でも止まっていたくなかった。
「怜司」
沙耶に呼ばれ、振り返る。
「相沢さんのことは、もう忘れなさい」
怜司はしばらく母を見た。
「簡単に言うな」
「簡単ではないから言っているの。いつまでも追いかけて、自分を傷つける必要はないでしょう」
「忘れるかどうかは俺が決める」
「そうね」
沙耶はそれ以上言わなかった。
当時の怜司には、その沈黙が母親なりの気遣いに見えていた。
自分がどれほど愚かだったか。
七年後の怜司は、ようやく知り始めている。
◇
現在。
怜司は会社の執務室で、七年前の入院記録について秘書から届いた返信を読んでいた。
『医療情報そのものについては、ご本人であっても保存期間や病院側の規定により確認できる範囲が限られます。ただし、当時の入退院記録、請求関係、一部の面会運用に関する資料については、正式な申請によって確認できる可能性があります』
怜司は最後まで読み、椅子へ深くもたれた。
七年前。
自分は美月が金を受け取って消えたと信じた。
それなのに昨日、美月は言った。
一円も受け取っていない。
何度も病院へ来た。
手紙も渡した。
さらに、自分の名前で書かれた別れの手紙まで受け取った。
どちらかが嘘をついているなら話は簡単だ。
だが、昨日の美月の顔を思い出すと、怜司にはそう思えなかった。
彼女は七年前の出来事を、本気で信じている。
自分もまた、七年間信じてきた。
ならば問題は別のところにある。
誰かが、二人へ別々の真実を見せた。
その可能性が、もう無視できないところまで来ている。
怜司は机の引き出しを開けた。
そこには一枚の紙が入っている。
事故後に沙耶から見せられ、その後自分でも保管していた振込記録の写し。
相沢美月という名前。
金額。
日付。
七年間、これを見るたびに胸が冷えた。
彼女が自分より金を選んだ証拠だと思っていた。
けれど今は違う。
「……これ、本当に美月の口座だったのか?」
初めて、そこから疑った。
当時は確認しなかった。
いや、確認したつもりになっていた。
名義が同じだから。
母親がそう言ったから。
美月がいなくなったから。
自分にとって都合の悪い情報ほど、証拠らしく見えてしまった。
怜司はスマートフォンを手に取り、秘書へ連絡した。
「七年前の振込記録について確認したい。正当な権限で追える範囲だけでいい。元帳と処理担当者、それから振込先金融機関の記録が残っているか調べてくれ」
『承知しました。案件名はどうしますか?』
「個人案件でいい。それと、俺以外にはまだ共有しないでくれ」
『かしこまりました』
通話を切る。
そのあと、怜司は長いあいだ机の上の紙を見つめていた。
七年前、美月を疑った。
傷ついた自分を守るために、彼女が悪かったのだと信じた。
もし、それが全部間違っていたなら。
自分が失ったのは恋人だけではない。
昨日見た、六歳の少年。
相沢陽翔。
その名前が頭に浮かぶ。
もし陽翔が本当に自分の息子なら、自分は美月だけではなく、息子の六年間まで失っていたことになる。
しかも、その始まりが誰かの嘘だったとしたら。
怜司は紙を握りしめかけ、途中で手を止めた。
証拠は壊せない。
今は怒るより先に、確かめなければならない。
七年前、自分が知らされた「相沢美月」という女性は、本当に美月本人だったのか。
その答えを得るまで、もう何も信じないと決めた。
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







